九州大学病院 心臓血管外科

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当科のご紹介

心臓血管外科教室の沿革

九州大学病院附属心臓血管研究施設:外科部門

九州大学附属心臓血管研究施設外科部門(以後、外科部門)は1973年(昭和48年)4月に当時の第一外科教授・西村正也教授の併任により開設された。同時に診療科としての心臓外科が九州大学附属病院に開設され、その後28年間にわたり現在の形で発展してきた。1973年当時、診療科としての心臓外科のみならず、独立した研究施設が全国に先駆けて内科部門とともに九州大学に開設されたことは、先人の努力の賜であるのは述べるまでもない。

第一外科心臓外科チーム時代

九州大学の心臓外科は三宅博教授の卓見により第一外科において発祥し,その後内科・小児科循環器の発展,協力とあいまって順調に成長した。1954年(昭和29年)当時の西村正也助教授(のち第一外科教授,心臓外科併任教授)による右心耳異物(鉄片)摘出を心臓手術成功第一例として本学の心臓外科が始まった。その後動脈管結紮術,非直視下僧帽弁交連切開術等の心臓手術が次々と成功を収めるに至り、当大学における心臓外科の基礎が固められていった。 1959年(昭和34年)7月浅尾学講師(元福岡大学心臓外科教授)が1年間の米国留学を終えて帰国され,心臓外科は着実な前進を始めた。同講師のもとに新たに心臓外科チームが作られ,超低体温,人工心肺等の生理が鋭意追究された。1962年(昭和37年)同講師により泉工社製メタルフィンガー人工心と同講師試作による人工肺を用いて,心房中隔欠損孔閉鎖術に成功,この症例が当院の人工心肺下開心術第一例となった。ペースメーカー植え込みは昭和39年佐藤元一博士(現在福岡市にて外科開業)試作に成るペースメーカーが臨床上初めて使用されたが,この分野におけるわが国の未開発時期を思えば,これはまさに画期的なことといえよう。その後竹田泰雄講師を中心にペースメーカークリニックが開かれ,患者は増加の一途をたどっている。人工弁置換術の最初の例は1964年(昭和39年)Starr-Edwards ball valveによる大動脈弁置換術であるが,術前より極めて重症例であったため,不幸にしてstone heartで失った。

1965年(昭和40年)には、西村正也教授が第一外科教授に着任され,心臓外科はますます前進することとなる。人工心肺の性能向上により,安全に中等度低体温下開心術が可能となり,正木秀人講師(元九州厚生年金病院副院長)をチームリーダとしてほとんどすべての先天性ならびに後天性心疾患の手術治療を行うようになり,年間手術例数は250と全国トップクラスに及ぶに至った。1967年(昭和42年)より使い捨て(disposable) 気泡型人工肺の使用を始め,人工心肺セットアップの時間を短縮し,緊急手術に対処できるようになるとともに,その充填量の少なさから大幅に血液を節約できるようになった。この血液節約は,ほぼ同時期に徳永皓一助手(現九州大学名誉教授)を中心にして始められた血液希釈体外循環法によりさらに助長され,開心術に要する血液が激減した。1968年(昭和43年)全国に先駆けて集中治療部(ICU)が開設され開心術後の患者を集中的に管理する体制が整った。術後の極めて不安定な血行動態を示す時期に,木目の細かい呼吸・循環の管理を行うことは手術成績向上の鍵となる重要なことであり, ICU設置は特筆されるべきであろう。

心臓血管研究施設外科部門の開設と徳永皓一初代専任教授時代

1958年(昭和33年)に九州大学医学部附属心臓血管研究施設が開設されて15年後、1973年(昭和48年)4月に当時の第一外科教授・西村正也教授の併任による外科部門が開設された。同時に診療科としての心臓外科(病床数18)が九州大学附属病院に開設された。翌1974年(昭和49年)5月に、九州厚生年金病院より徳永皓一外科部長(現九州大学名誉教授)が専任教授に着任され、研究,臨床面ともさらに目ざましい進歩を見た。徳永皓一教授の目標である「九州大学の名に恥じない海外に通用する全国トップレベルの一流の教室」をめざし、研究面では人工心肺,補助循環,術中心筋保護を主なテーマとして着々と実績をあげた。外科部門開設以来、旧第一外科棟、整形外科棟、そして再び旧第一外科棟と転居を繰り返してきたが、1978年(昭和53年)3月に臨床研究棟B棟が新営されるにあたり、内科部門とともに移転した。1979年(昭和54年)12月には、徳永皓一教授就任以来不在であった助教授に当時の安井久喬講師が1979年(昭和54年)12月に任命された。

臨床面では,1977年(昭和52年)より採用したcardioplegia(心筋保護液)とtopical hypothermia(局所心筋冷却)併用による心筋保護法などにより手術成績は著明に向上した。たとえば昭和52年度の主な手術成績では,ファロー四徴症根治手術20例の死亡率5%,弁置換例32例の死亡率3%であり,欧米の優秀な一流の心臓外科センターと比較しても遜色の無い良い手術成績を修めた。また、1978年(昭和53年)には、大動脈冠動脈バイパス術の第一例に成功した。さらには当時は鬼門とされていた大動脈手術にも成功し(上行大動脈置換術)、1984年(昭和59年)の弓部大動脈瘤手術の成功を皮切りに年々症例数が増加し、2001年(平成13年)には85歳に対する弓部大動脈瘤手術が施行されるまでに至っている。

1985年(昭和60年)には、輸血部の全面的な協力を得て心臓手術前の自己血貯血が全国に先駆けてシステムとして開始された。当時は開心術のほぼ全症例に他家血輸血が施されており、輸血後肝炎の本態が解明されていなかった故に(nonA-nonB型肝炎と称されていた)、心臓手術患者の15%から20%の患者に輸血後肝炎を併発していた。現在では、待機手術症例のほぼ70%に自己血貯血を行ない、動脈瘤や再手術症例を含めても自己血輸血患者の80%に無輸血(無他家血輸血)手術が可能となっている。

開心術後の重症心不全に対し各種の強心剤や血管拡張剤に加え大動脈バルーンポンプ(IABP)を使用しても十分な心拍出量が得られない場合に心室補助循環装置(人工心臓)を要する場合がある。当初、国立循環器病センター空気駆動型の左室補助循環装置を用いていたが、1988年(昭和63年)4月に大動脈冠動脈バイパス術後の重症心不全に対し左室補助循環装置を装着しその後離脱しえた症例を経験した。その後、開心術後の重症心不全に対する補助循環装置は経皮的補助循環装置(膜型人工肺を有するV-A bypass)に移行した。純粋な左室補助循環装置は開心術後には用いられなくなったが、本邦での脳死心臓移植再開にともない再び臨床応用される(後述)。

時代は前後するが、ここで関連病院について触れておきたい。徳永皓一教授就任当時(1974年)の関連病院は、九州厚生年金病院心臓血管外科と下関市立中央病院心臓血管外科の二施設であった。当時の厚生年金外科部長徳永皓一が九州大学教授に着任された後、正木秀人外科担当部長に引き継がれた。現在は、瀬瀬顯部長の下、新生児から高齢者の大動脈疾患まで年間350例以上の心臓手術を行なっている。一方、下関市立中央病院は、1970年(昭和45年)に心臓外科新設準備のため赤尾元一(元下関中央病院長)が赴任したのち吉利用和部長に引き継がれ、現在は上野安孝部長の下、主に成人の心臓血管手術を行なっている。

1980年(昭和55年)には、福岡市立こども病院に心臓血管外科が開設され、当時の助教授安井久喬(現九州大学教授)が循環器総括担当主幹として赴任した。その後のこども病院の循環器科・新生児科と一丸となった心臓外科チームの発展は新聞、テレビ等で報道されていたように当時まだ困難であった乳児、新生児開心術の障壁を次々と打破し、本邦の先天性心臓病外科治療の先鞭をつけた目覚しいものであった。現在では角秀秋部長の下、北は北海道から南は沖縄まで日本中から患者が搬送され、2000年の統計によると手術総例404例と日本一の症例数を有する小児心臓病センターとなっている。また、病院死亡率0.8%と世界一の外科手術成績を誇っており国際的にも高い評価を得ている。1981年(昭和56年)4月には、松山赤十字病院心臓血管外科が開設され、当時の松井完治講師が部長として赴任した。1988年(昭和63年)9月には飯塚病院に心臓血管外科部門が開設され同時に循環器病センターが開設された。当時の助教授田中二郎(現飯塚病院長)がセンター長蒹心臓外科部長として赴任した。筑豊地区の循環器医療の発展に大きく寄与した飯塚病院心臓血管外科は、現在安藤廣美部長の下、着々と症例数を伸ばしている。また、1993年(平成 5年)には熊本市民病院小児心臓外科部門(米永國宏部長)が開設され、中南部九州における先天性心臓病の基幹病院となった。

徳永皓一教授時代の研究業績として特筆すべきことは、開心術における心筋保護研究であった。心筋の代謝生理における基礎研究で数々の業績を残し、その知見をもとに九大式心筋保護液を開発し、臨床応用することで優れた手術成績を残すことが出来たのである。九大式心筋保護液が世界で最も頻用されているSt.Thomas Hospital Solutionよりも優れた心筋保護作用を有することが臨床的にも証明され、欧文の一流誌に掲載された。

1990年2月には福岡市立こども病院循環器総括担当主幹であった安井久喬が、助教授として再赴任した。1991年(平成3年)4月には徳永皓一教授が九州大学附属病院長に就任された。新病院建設や病院地区再開発などの問題に取り組みつつ、1993年(平成5年)3月第23回日本心臓血管外科学会総会を主催された。当時としては異例の1400人もの会員が一堂に会するという質、量ともに評価の高い学会となった。本学会を成功裡に導かれた直後、徳永皓一教授は九州大学教授を退官され同年5月に九州大学名誉教授となられたが、その後も国立福岡中央病院長として国立病院九州医療センターの開設に力を注がれた。徳永皓一教授の退官後、1993年(平成5年)5月に安井久喬助教授が心臓外科教授に就任され、助教授には川内義人講師が任命された。

第二代安井久喬教授時代

徳永皓一教授から安井久喬教授に引き継がれた後、1994年(平成6年)6月には、徳永皓一前教授を病院長として国立病院九州医療センターが開設した。当時の助教授川内義人が同センター心臓血管外科主任医長として赴任し、新たに富永隆治講師が助教授に任命された。また、同年10月には河野博之講師が産業医科大学第二外科助教授として赴任した。

研究面においては、徳永皓一前教授以来の心筋の代謝生理に関する研究、体外循環やIABP駆動時における交感神経活動に関する研究、子牛を用いた両心バイパス、薬剤を用いた心保存時の再環流障害の抑制の研究等が着々と業績を上げた。免疫寛容に関する研究、特にシクロフォスファミド免疫寛容実験系は、九大生医研野本研究室及び当科により開発され発展してきた日本発の世界に誇るべき免疫寛容実験系であり、発表された論文数は欧米の一流誌をはじめとして56報に及んだ(1984年から2001年末まで)。免疫学のみならず分子生物学の臨床応用を目指して基礎系大学院に医局員を積極的に派遣したのもこの頃からであった。

臨床面では、1993年(平成5年)12月には、CPI社の臨床治験の一環として植込型除細動器の第一例目が行われた。当時は第三世代の除細動器であり除細動器そのものが150g以上あり満足なQOLが得られるものではなかった。1997年(平成9年)に第三世代の除細動器の保険適応が認められ、現在は第四または第五世代まで進化した。装着手技もペースメーカー並に簡易になっており、高度先進医療の一つである本治療法の症例数は増加している。弁膜症に関しては、安井久喬教授による人工腱索を用いた僧帽弁形成術が症例数を伸ばし良好な成績を修め始めていた。また、SJM社ステントレス生体弁(Toronto SPV)の臨床治験が開始された。

1997年(平成9年)には、当科における冠動脈手術に転換期を迎えた。従来、左右内胸動脈と大伏在静脈をグラフトとして用いられてきたが、左右内胸動脈に加え右胃大網動脈や橈骨動脈等の動脈グラフトを積極的に用いる方針とした。1998年(平成10年)になると、人工心肺を用いない心拍動下冠動脈バイパス術が開始され、従来であれば人工心肺を用いるにはリスクが大きく適応外となっていた症例を手掛けるようになった。さらに、バイパス術困難例に対するTMLR(Transmyocardial laser revascularization)の臨床治験が開始され、1998年には3例の冠動脈バイパス症例に併用した。このように当科では、手術適応があればそれぞれの症例にあわせて冠動脈バイパス術を行っており、またその手術成績は病院死は1%台(2000-2001年)と欧米の一流の心臓外科センターと遜色のない手術成績を修めている。

1998年(平成10年)は、本邦の心臓外科にとって重要な年となった。大阪大学において脳死心臓移植再開第一例が施行された。時期を同じくして、当科にて20才の拡張型心筋症の男性に対する体内植込型の左室補助循環装置(Novacor)の装着に成功した。国内では3施設目であり心臓移植認定施設以外では最初の成功例であった。また、35才の拡張型心筋症の男性に対しては国循型左室循環補助装置を装着した。両症例ともに順調に回復し外出しての食事やキャンパス内の歩行まで可能となり、心臓移植待機患者として日本臓器移植ネットワークの待機リストに掲載されていた。しかしながら脳死心臓移植再開3例目以降しばらく心臓移植が行われず移植待機期間が一年以上の長期となり、補助循環装置装着患者にとって未だ避けがたい重篤な合併症である感染と脳塞栓症を繰り返し、心臓移植を受けることなく他界された。

1999年(平成11年)7月には、安井久喬教授主催の日本小児循環器学会が開催された。本学会には延べ1000人以上の医師、看護婦が参加し、充実した討論が行われた。その翌年の2000年(平成12年)9月には、第8回アジア心臓血管外科学科が安井久喬教授の主催にて開催された。本学会は安井久喬教授の理念のもと、アジアの心臓血管外科を更に飛躍させるべく、欧米の一流の外科医を数多く招聘するとともに、アジアの心臓血管外科医と共通の場で討論する形式とした。さらに、アジアの若手医師育成のため、旅費及び滞在費を援助し、広く知識を吸収させ、アジア心臓血管外科の向上、発展のための努力をした。本企画には、福岡市より力強い後援を頂いた。2002年10月には、安井久喬教授主催による第55回日本胸部外科学会総会が開催される予定であり、教室内外を挙げて準備を開始している。

関連病院及び施設に関しては、1997年(平成9年)3月に当時の井本浩講師が香川医科大学第一外科講師として赴任し、その翌年1998年(平成10年)4月に小江雅弘講師が赴任した。1999年(平成11年)11月に福岡赤十字病院心臓血管外科が開設され、産業医科大学第二外科助教授であった河野博之が部長として赴任した。また、松山赤十字病院に在籍中であった麻生俊英が、2000年(平成12年)5月に北里大学胸部外科助教授として赴任した。2001年(平成13年)4月には、北九州市立医療センター心臓血管外科が開設され、富永隆治助教授が部長として赴任した。さらに、同年8月には、産業医科大学に心臓血管外科が新設されるにあたり国立病院九州医療センター心臓血管外科に在籍していた戸嶋良博元助手講師が科長として赴任した。

最近の臨床面での動向は、手術の低侵襲化である。前述した心拍動下冠動脈バイパス術、左前下行枝のみの冠動脈バイパス術に対するMIDCAB(Minimally Invasive Direct Coronary Artery Bypass)、小児および成人開心術における小切開開胸法の導入等が積極的に行われている。成人において、6~7cmの皮切での心臓弁手術も行っている。将来的には内視鏡下開心術やロボテック手術による開心術を視野に入れ、その準備を行っている。また、九州では初めての心臓移植指定施設に認定され、重症心不全への外科的治療も積極的に行っている。最近の研究に目を向けると、拒絶反応の機序解明と免疫寛容誘導に基づいた同種あるいは異種心臓移植法の開発に関する研究に加え、先天性心臓病における次世代の外科治療である胎児手術時の胎児体外循環における生理学的特性の解析、豚を用いた心筋及び血管の再生医療法の開発、遺伝子治療法の心筋保護や心保存への応用、体外循環による生体への侵襲の解析とより低侵襲を目指した体外循環装置の開発、臓器虚血再灌流に伴う酸化ストレスの病態解析等を行なっている。特に人の末梢血造血幹細胞移植による心筋あるいは血管再生については、当院循環器内科・第一内科・輸血部と共同研究という形で臨床治験すべく九州大学医学部倫理委員会に申請していたが、2002年5月2日に倫理委員会より承認された。

二十一世紀を迎えるに当たり、国立大学にも変革の波が押し寄せてきた。2000年(平成12年)4月には、九州大学は研究院組織を新たに編成し、九州大学大学院医学研究院附属心臓血管研究施設外科部門へと名称が変更された。医学研究院の発足と同時に新たに、九州大学医学研究院臓器機能医学部門 心臓血管病態制御学講座 循環器外科学分野が設立され、現在に至っている。

心臓血管研究施設

心臓血管研究施設は1958年(昭和33年)4月に開設され、本年(2002年)をもって、満44年を迎えることになる。この間、1965年(昭和40年)に診療科としての循環器内科が併設され、1973年(昭和48年)4月には外科部門が開設され同時に診療科としての心臓外科が併設された。さらに、1988年(昭和63年)には、臨床細胞部門が併設され心臓血管研究施設は、内科部門、外科部門及び臨床細胞部門の三部門となった。本編では、心臓血管研究施設の沿革を記すに留め、詳細は各部門の項を参照されたい。

九州大学医学部における循環器領域の歴史は古く、開学当初に遡る。即ち、第一内科初代教授稲田龍吉博士の心電計による臨床的研究にはじまり、井戸泰、呉建、金子健次郎、操担道の各歴代内科教授により循環器分野の研究が連綿と引き継がれた。また、基礎医学においても「田原結節」で世界に名を残した病理学の田原淳教授、更には石原誠生理学教授、薬理学福田得志教授などと九州大学はそれぞれの分野で日本を代表する傑出した循環器系学者を輩出してきた。これら積年の業績が認められ、1958年(昭和33年)4月、全国各大学に先駆けて本学に心臓血管研究施設が開設された。初代併任施設長として、当時医学部長であった小児科遠城寺宗徳教授、初代併任教授として第一内科山岡憲治教授がそれぞれ就任された。その後、天児民和医学部長、宮崎一郎医学部長が施設長を併任された。九州大学創立50周年を迎えた1961年(昭和36年)11月に、心臓血管研究施設が内科共同図書館に移転することが決定し、翌1962年(昭和37年)に、旧内科共同図書館跡に、心臓血管研究施設の研究室が建設された。さらに1963年(昭和38年)には、当時の中村元臣講師(現九州大学名誉教授)が専任教授に任命され、1965年(昭和40年)に診療科としての循環器内科(病床数30)が併設された。1966年(昭和41年)には、宮崎一郎施設長の後任として中村元臣教授が施設長に就任された。

1973年(昭和48年)4月に、心臓血管研究施設に国立大学でははじめての外科部門(心臓外科)が開設され、同時に診療科としての心臓外科(病床数18)が併設された。教授選任までの併任教授として第一外科西村正也教授が就任された。内科、外科がお互いに密接な連携をもって循環器の臨床、研究を行うという心臓血管研究施設の理想的な体制がここにでき上がった。その後、1974年(昭和49年)5月、初代心研外科部門(心臓外科)教授として、九州厚生年金病院より徳永皓一(現九州大学名誉教授)が着任された。

心臓血管研究施設開設20周年(九州大学医学部創立75年)を迎えた1978年(昭和53年)には、臨床研究棟B棟の建設により、研究施設開設以来、内科部門と外科部門の教官室、医局、図書室、研究室等をすべて集約することが出来た。1979年(昭和54年)10月には、冠動脈疾患治療部(CCU;病床数4)が附属病院に併設された。1985年(昭和60年)4月には、中村元臣教授が九州大学附属病院長に就任されるとともに、後任として徳永皓一外科部門教授が施設長に就任された。

1987年(昭和62年)5月には臨床細胞科学部門が併設され、1988年(昭和63年)に、当時の金出英夫内科部門講師が初代教授に就任された。1990年(平成2年)3月をもって、中村元臣教授が内科部門教授を退官され、後任として当時の竹下彰内科部門助教授が就任され現在に至っている。1991年(平成3年)には、徳永皓一教授の病院長就任に伴い、竹下彰教授が施設長として就任された。1993年(平成5年)には、徳永皓一教授が退官され、後任の外科部門教授として当時の安井久喬外科部門助教授が就任され現在に至っている。またこの年、施設長には金出英夫教授が就任された。

翌1994年(平成6年)に統合教育センター及び心臓血管研究施設の統合棟が臨床研究棟B棟横に建設され、臨床細胞科学部門が移転した。1997年(平成9年)には、10年間の時限付で開設されていた臨床細胞科学部門が、その業績を認められ分子細胞情報学部門へと再編成され、助手1名が増員となり時限が廃止された。

1995年(平成7年)には、循環器病研究における功績により、中村元臣名誉教授に紫綬褒章が授与された。

1997年(平成9年)には、4年間にわたり施設長を務めてきた金出英夫教授の後任として、安井久喬教授が施設長に就任された。1999年(平成11年)から2年間は、竹下彰教授が施設長を務められた。2001年4月より、再び安井久喬教授が施設長に就任され現在に至っている。

新しい世紀を迎えるに当たり、国立大学でも変革の波が押し寄せてきた。1997年(平成9年)より進められてきた、大学院整備(重点化)3カ年計画の最終年の1999年4月に、九州大学医学部附属心臓血管研究施設は九州大学大学院医学系研究科附属心臓血管研究施設と名称を変更した。さらに、2000年4月には、九州大学での研究院組織の新たな編成に基づき九州大学大学院医学研究院附属心臓血管研究施設へと名称を変更し現在に至っている。

終わりに

1958年(昭和33年)4月に開設された心臓血管研究施設は、2002年4月には開設45周年を迎えようとしている。この間の沿革について略述したが、各部門の講座史と重複することはお許しいただきたい。本編を記すに当たり、中村元臣教授退官記念業績集、徳永皓一教授退官記念業績集、九州大学医学部附属心臓血管研究施設年報(1994~2001)、九大医学部同窓会名簿(平成11年版)、九州大学医学部創立七十五周年史を参考とした。

歴代施設長
遠城寺 宗徳 1958年(昭和33年)4月1日~1960年(昭和35年)3月31日
天児 民和 1960年(昭和35年)4月1日~1964年(昭和39年)3月31日
宮崎 一郎 1964年(昭和39年)4月1日~1966年(昭和41年)3月31日
中村 元臣 1966年(昭和41年)4月1日~1986年(昭和61年)3月31日
徳永 皓一 1986年(昭和61年)4月1日~1991年(平成03年)3月31日
竹下 彰 1991年(平成03年)4月1日~1993年(平成05年)3月31日
金出 英夫 1993年(平成05年)4月1日~1997年(平成09年)3月31日
安井 久喬 1997年(平成09年)4月1日~1999年(平成11年)3月31日
竹下 彰 1999年(平成11年)4月1日~2001年(平成13年)3月31日
安井 久喬 2001年(平成13年)4月1日~2003年(平成15年)3月31日
金出 英夫 2003年(平成15年)4月1日~